九州大学 研究者情報
発表一覧
瀬平劉 アントン(せびらりゆう あんとん) データ更新日:2023.11.28

准教授 /  基幹教育院 人文社会科学部門


学会発表等
1. Anton Sevilla-Liu, ACT and the Kyoto School of Philosophy: Mori Akira and the Four Layers of Personality, Association of Contextual Behavioral Science World Conference, 2021.06.
2. セビリア・アントン, 自覚のための教育―ライフ・ストーリー面談とナラティヴ・セラピー面談の比較研究, 心の科学の基礎論研究会, 2019.07.
3. Sevilla, Anton Luis, "Why Do We Need Self-Awareness? Mori Akira’s Struggle with Dewey", American Philosophy Forum, 2019.06.
4. Anton Luis SEVILLA, Watsuji Tetsuro, Fudo, and the Ethics of Education, Asian Conference on Ethics, Religion and Philosophy, 2019.03.
5. セビリア・アントン, 教育におけるマインドフルネスと無心, 「無」の思想に基づくケア理論の構築とその臨床教育学的位置づけ, 2019.03.
6. Anton Luis SEVILLA,  Human Becoming and the Democratic Subject:A "Developmental" Approach to Political Education in Mori Akira, Séminaire CNRS JSPS sur l'éducation à la démocratie, 2018.12.
7. セビリア・アントン, ナラティブ教育の教育人間学的位置づけ・理論・応用―森昭、マクアダムス、エプストン&ホワイト―, 九州教育学会, 2018.11.
8. Anton Luis SEVILLA, Mori Akira's Philosophy of Moral Education: Focusing on Its Connections to the Kyoto School, World Congress of Philosophy, 2018.08.
9. セビリア・アントン, 和辻哲郎におけるナラティブ思想の受容と可能性, 実存思想協会, 2018.03.
10. Anton Luis Capistrano SEVILLA, "Individuality and Communality in a Life Story: A Narrative Approach to Watsuji Tetsurô", International Society for Theoretical Psychology, 2017.08.
11. Anton Luis Capistrano SEVILLA, "Mindful Education and the Kyoto School: Contemplative Pedagogy, Enactivism, and the Philosophy of Nothingness", International Conference on Cognitive Neurodynamics, 2017.08.
12. Anton Luis Capistrano SEVILLA, "Empty Stories: A Narrative Approach to the Philosophy of Emptiness", International Association for Japanese Studies, 2017.07.
13. Johan Lauwereyns, Kazashi Nobuo, Tsuda Ichiro, Anton Luis Capistrano SEVILLA, A Dynamic Spatial-Temporal Vector that Self-Determines the Absolute Present: Notes from Nishida for Consciousness Studies, International Association for Japanese Philosophy, 2016.10, Presentation of results was by Jan Lauwereyns..
14. Anton Luis SEVILLA, "Unifying No-Mind and Caring Education via Watsuji Tetsurô", Views of Watsuji Tetsurô from Around the World, 2016.06.
15. Anton Luis SEVILLA, "Educational Ideals in Pre and Post-War Japan: The Shift from Imperialism to Deweyan Democracy", Asian Association of Christian Philosophers, 2015.11.
16. Anton Luis Capistrano SEVILLA, "The Educational Possibilities of the Kyoto School of Philosophy: With a Cross-Reading of Watsuji and Bollnow", American Philosophical Association, 2016.01.
17. SEVILLA ANTON LUIS, 「京都学派から見た「観照的・マインドフル教育学」――学び・スピリチュアリティ・社会の葛藤――」, 教育哲学会, 2015.10.
18. SEVILLA ANTON LUIS, 「空の倫理学における倫理と超倫理―末木文美士の和辻批判を超えて―」, 西田哲学会, 2015.07, 近年、海外の日本哲学研究において、京都学派およびその周辺の思想家をただ分析し、解釈するのみならず、それを様々な社会問題に応用する試みがいくつかなされている。この流れを受けて、筆者は博士論文『空の倫理学を世界の場へ―和辻哲郎の体系的倫理学の応用・限界・可能性』(総合研究大学院大学、2015年、英語)において、和辻の体系的倫理学の全体像について、仏教から強い影響を受けた彼の「空」の概念に焦点を当てて分析した。筆者の主張は、和辻の「空の倫理学」が主観と客観、また個別性と全体性のあいだの緊張関係を維持する倫理学の考え方を明示してくれる、というものだった。筆者はこのような倫理学の考え方を国際的に応用する具体例、およびその可能性を提示することを試みた。
さて、以上のような和辻解釈に対して極めて重要な参照項となる批判が、末木文美士(『反・仏教学』2013年、および『哲学の現場』2012年)において提出されている。末木の批判は、和辻の倫理学は「人間」の領域に制限されている考え方であり、「他者」に対応できないというものである。この考え方は、他者に対するまことの責任は「倫理」を超えた「超倫理」まで到達しなければならないという発想に基づくものであり、末木は仏教哲学の中にこのような超倫理を見出そうとしたのである。しかし、和辻の倫理学が末木の言う超倫理的な契機、あるいは他者を欠いたものであるのだろうか、という問題が当然のように提出されるだろう。
本発表の目的は、末木と和辻の倫理学理論の比較研究を通じて、「倫理」と「超倫理」の複雑な関係を明らかにすることである。具体的には、和辻が「人間の倫理」の構築を試みたのは確かだが、その一方で和辻は「空」、「無根拠性」、「終わりなき否定の循環」などの「仏教的」(あるいは「西田的」)な概念を導入することによって、自身の倫理学の閉じられた体系を内部から突破する超倫理的契機をもたらしたのだと論じたい。このような内部からの突破は、『倫理学』中巻と下巻(1942年、1949年)にある社会変動論に顕著に見ることができる。
加えて以上の探究は、より核心的な部分において、「無・空の哲学」を社会的・倫理的に応用するに際していかなる難問があるのかを提示する試みであり、その点で有効性を持つものであるだろう。.
19. SEVILLA ANTON LUIS, 「和辻哲郎のグローバル倫理学」, 比較思想学会, 2015.06, 本発表の目的は、和辻哲郎の『倫理学』とそれに関連する著作における「グローバル倫理学」を明確にすることである。最近、英語圏で、和辻倫理学をグローバルな問題に応用する試みがいくつかなされている。はじめに、本発表ではその実例として、クリストファー・ジョーヌズの「Interman and the “Inter” in International Relations: Watsuji Tetsurô and the Ethics of the Inbetween」(2003年)とマイケル・マーフィーの「The Critical Cosmopolitanism of Watsuji Tetsurô」(2015年)を紹介する。これらの研究には大きな可能性が秘められているが、和辻の原文が十分に参照されたとは言えず、それらの中で示された解釈については議論の余地が残されている。そこで、本発表では、上記の研究者たちによる解釈の根拠を日本語原文の中で確認したうえで、それに対する批判や補完を行うことにした。

グローバル倫理学に関する和辻の著作を分析すると、彼は大きな現代問題に衝突したことが分かった。すなわち、グローバル倫理学は、歴史的・文化的特殊性にかかわらず、直接的に個々人をつなぐ普遍的な規範の問題だろうか。或いは、相対的かつ特定国家の道徳の問題だろうか。『風土 人間学的考察』(1935年)において和辻は倫理学の風土的・歴史的な特殊性、または、所属性に焦点をあてた。この「相対主義」のように見える構えが『倫理学』下巻(1949年)にも見られる。

しかし、「国民道徳論」に対する和辻のレスポンス(1932年)を考察すると、彼が道徳相対主義に対して批判的であったことが明確である。相対主義は歴史的な道徳の表現を普遍的倫理的な根本から切り離されたものとして把握する傾向があり、そこで善いありかたと悪いありかたを区別する判断基準がなくなる。この道徳普遍主義といえる考え方が特に『倫理学』上巻(1937年)に明解に表れている。そこでは、信頼関係の多様性があるにせよ、信頼と真実自体が普遍的な倫理学であると論じられた。これを個人性と全体性の関係に言い換えれば、個人性と全体性の確立の仕方は特殊的だが、個人性と全体性の相互否定、いわゆる「否定の運動としての「空」」は普遍的だと考えられる。

ただし、同時に、「普遍的道徳と国民的道徳」(1938年)に明らかに見えるように、和辻はコスモポリタン普遍主義に対して批判的だった。そのような道徳普遍主義は個人を直接、絶対者・絶対性(神、ロゴス、或いは合理性)に結びつけ、有限的共同体を迂回するきらいがある。むしろ、和辻の考え方からすれば、普遍的な人間性は、風土的歴史的に特殊な人倫組織においてのみ実現され、従って、普遍道徳は、特殊な生活様態にのみ具現され、その生活様態も普遍原理に基礎づけられる。

最後に、『倫理学』下巻において、和辻がその見方を世界史とグローバル倫理学の考えの中で、如何に適用しようとしたかを明らかにする。以上をもって、グローバル倫理学における和辻の応用・限界・可能性を明確にしたい。.

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