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鷲崎 俊太郎(わしざき しゅんたろう) データ更新日:2023.11.22

准教授 /  経済学研究院 産業・企業システム部門 産業システム


主な研究テーマ
西鉄沿線の経済史・近現代史
キーワード:西日本鉄道 西鉄 近代 現代 経済史 歴史地理 経済地理 福岡県 福岡市 春日市 大野城市 太宰府市 筑紫野市 小郡市 久留米市 三潴郡大木町 柳川市 みやま市 大牟田市
2022.10~2024.03.
歴史地理学―日本経済史間の学際的研究史
キーワード:歴史地理学 社会経済史 数量経済史研究会 梅村又次 黒崎千晴
2011.04~2012.01.
近世・近代における都市の土地市場史研究
キーワード:江戸 東京 三菱 土地市場 不動産経営
2009.04~2018.03.
研究業績
主要著書
1. 鷲崎 俊太郎, 近世都市の土地市場と不動産経営, 岩波書店, 深尾京司・中村尚史・中林真幸編『岩波講座 日本経済の歴史』第2巻近世,岩波書店,2017年,第3章「農業と土地用益 経済成長と社会的安定の相克」における第2節を担当,176-187, 191-192頁, 2017.08, 本著では,主として数量的把握を中心とした近世都市の土地市場と不動産経営を概観し,とくに江戸を事例とした町屋敷の賃貸・売買市場,および家質(近世都市の土地不動産を抵当にとって地貸・店貸経営の収益を基準に利息を取る金融業)をめぐる抵当史上の存在と関係を述べている。
 これまでの研究・分析の結果,町屋敷売買システムの形成は,江戸の不動産市場へ多様な投資資金を誘導させ,抵当市場との連動による売買市場を活性化させたと考えられる。また,土地資産の流動化という観点においても,町人のほか,地借・店借層や江戸近郊の百姓層が江戸の土地市場へ町屋敷を所有すべく参入し,他方でそれを容易に処分して退出していた。
 ただし,広域的な地方居住者が江戸の土地市場に参入したわけではなく,土地市場の空間的限界が大きく立ちはだかっていたのも,また事実である。この点は,同じ要素市場であっても,労働市場とは全く異なっていた。
 江戸の土地市場は,今日の証券化のように,小口資金を呼び込む仕組みを欠いていたため,近世の資産市場としての限界が生じていたが,他方で,「持込家質」という手段が町屋敷購入者の自己資金準備率を軽減させる役割も果たしていた。
 町屋敷経営の収益率は,貸付や家質の利子率と比べて低利だったが,一般の大名貸が幕府法定の保護を得られなかったのに対して,町屋敷の所有権である沽券や,沽券を担保とする金融は,大坂-江戸間に弁済の相違こそあれ,町奉行所に保護されていた。したがって,利回りの差は幕府司法保護の有無によるリスク・プレミアムによって説明することができると考えている。.
2. 鷲崎俊太郎訳, マリー・コンテ=ヘルム「戦後の日英投資関係」,杉山伸也・ジャネット・ハンター編『日英交流史4経済』所収, 東京大学出版会, 303~332頁, 2001.06.
主要原著論文
1. 鷲崎俊太郎, 明治後期における三菱の内幸町地所購入とその貸地利用:弁護士増島六一郎による貸事務所経営を中心に, 三菱史料館論集, 23, 97-128, 2022.03,  本稿の目的は,日清・日露戦後期に三菱が東京の麹町区内幸町に所有した地所に関して,その購入過程を調査し,借地人の特色を分析するとともに,弁護士・増島六一郎による借地利用の実態を追究することにある。
 明治初期の内幸町には東京府庁が設置されたが,その土地利用は近世期と変わらなかった。1894年に府庁が有楽町へ移転すると,三菱が翌年にその跡地を落札し,35筆に分割して貸地経営を行った。借地人のなかでも,三菱や岩崎家に所縁のある弁護士の増島六一郎は,5~6筆を賃借した点で特異な存在だった。増島は,その借地に自身の法律事務所を丸の内から移転させただけでなく,木造洋風の貸家経営を行った。明治前期の不動産仲介業は悪評高く,売買・賃貸情報の非対称性が存在したが,平時から予防法学の普及を心掛けていた増島は,この悪習慣を絶たせ,土地家屋に関する法律の浸透を借り手へめざすために,借地上の貸家経営を実施していたと想定される。
 他方で,内幸町地所には,「インターナショナル・ビルディング」と呼ばれた大廈が存在し,外国法人に貸し出されていた。こうした貸事務所が日露戦後期に内幸町に存在したことは,条約改正以降,東京への進出を試みた外資系企業にとって,相対的に低賃料で,築地旧居留地や新橋停車場にも近い利便性を活かせたに相違なく,増島が早くから外国商人の代理人依頼を受けていたからこそ実現したのではないかと主張される。.
2. 鷲崎俊太郎, 近代東京における旧福山藩士族のファミリーヒストリー分析 ―明治期の新聞と昨今のデータベースから紡ぐ江木高遠・保男兄弟の生涯―, 経済学研究, 88巻, 4号, 19-42, 2021.12,  本稿の目的は,明治の東京に在住した士族の江木高遠・保男兄弟に関して,先行研究や新資料,昨今のデータベースからの事実を時系列で再編し,その人生の意義を再検討する点にある。
 高遠の場合,1870年代後半に講談会を断続的に組織したのは,留学時に獲得した米国の習慣・法律などの知識を,近代都市東京の府民に教授するためだったといえよう。講談内容が高遠の専門である法律学だけに偏重することなく,自然科学にまで至っていたのは,それだけ洋学の幅広い教養と興味深さを,一般市民にも持ってほしかったからだと思われる。それだけに,講談会の名称が3度変更されたのは,そのタイミングに合わせて,高遠の交遊関係が拡大している証左でもあり,その背景として,当時高遠が英語学校および予備門の教員に就任していた点が重要であった。これだけ幅広い人材を束ねられたのは,ひとえに高遠のファシリテーターとしての力量があってのことだと思われる。
 保男に関して,写真店経営者はあくまで彼の軌跡の終着点であって,その本来の役割は別のところに存在していたと思われる。当初として,その語学力が買われた結果,殖産興業・輸出振興政策の最前線部隊に立っていたが,それとともに育まれたのは,近代欧米都市文化の日本への移植願望であった。『郵便報知新聞』の通信員としてパリ万博の到達点を伝えたのち,東京乗合馬車会社で輸入車両の「オムニバス」を市内に走行させたり,江木写真店の一支店に過ぎなかった新橋店に「江木塔」と呼称されるモニュメントを築いたりするあたりには,高遠とデュリーの影響を強く受け,万博に魅せられた保男による東京の「パリ化」が部分的に具現化されたといってよい。結果として,乗合馬車会社の経営が失敗し,写真店の経営が軌道に乗ったことで,保男は写真店主という肩書きを得ることに成功したが,43年間の人生は保男にとって短かすぎた点で,残念でならない。.
3. 鷲崎俊太郎, 新型コロナウイルス感染症対策下におけるオンライン授業の成果と課題 : 九州大学経済学部「日本経済史」における学生の受講実態とメッセージ, 経済学研究, https://doi.org/10.15017/4377820, 87, 5・6合併, 69-93, 2021.03, [URL], 本稿は、2020(令和2)年度の新型コロナウイルス感染症対策下において、九州大学経済学部「日本経済史」の受講学生を事例とした大学のオンライン授業に対する成果と課題を表したルポルタージュである。高年次の専門教育科目という微視的な対象範囲ではあるが、この非常年に、学生が講義にどのような姿勢で臨んでいたのかという受講実態と、それに伴う彼ら彼女たちのメッセージをこれからの時代へ残すことを、主な目的としている。.
4. 鷲崎俊太郎, 江戸における米価と不動産抵当金利の時系列推計分析 ―八王子米価と築地・鉄砲洲地区家質利子率―, 経済学研究, 85, 4, 41-57, 2018.12, [URL], 本稿の目的は,旧稿の鷲崎[2016]で取り扱った築地・鉄砲洲地区を事例とした江戸市中の不動産抵当金融である家質貸の利子率について,その決定要因を分析するとともに,その結果に基づいた推計利子率を時系列tで標準化させることにある。 その結果,物価と利子率との間には有意で明確な正の相関が見られた。さらに,推計した利子率は,1840年代から上昇を開始し,幕末の1860年代には1780年代の水準を上回るまでに快復していた。以上の考察から,江戸の金融市場では,契機の上昇局面において物価も利子率も上昇するというメカニズムが作動していたと判断できた。.
5. 鷲崎 俊太郎, 中津藩士・岡見家一族の江戸町屋敷購入 ―築地上柳原町の事例―, 福沢手帖, 172, 10-16, 2017.03,  1858(安政5)年,中津藩の江戸藩邸に蘭学塾を開く目的で大阪の適塾から福沢諭吉を呼び寄せた同藩士・岡見彦三の横顔や中津藩における岡見家の役割はほとんど明らかにされてこなかった。他方,江戸町屋敷の不動産経営史研究が進捗する中で,築地上柳原町の土地台帳に岡見家の町屋敷購入に関する記述が明らかとなった。そこで本稿では,幕末の岡見家による町屋敷購入の事実関係を確認してみることにした。その結果,岡見彦三や兄の清通が上柳原町の町屋敷を購入した1839(天保10)年と1857(安政4)年という時期は,まさに土地売買価格の相対的な低下局面にあったことが解明された。.
6. 鷲崎 俊太郎, 江戸の土地資産市場と不動産抵当金融 ―築地・鉄砲洲地区における町屋敷売買と家質の事例―, 経済学研究, 83, 2・3合併, 31-60, 2016.09, [URL], 本稿の目的は,家質(かじち)貸という徳川期の都市で行われた不動産抵当金融について,そのシステム・利子室や土地の取引価格に着目しながら,江戸における土地資産市場の構造的特徴を分析する点にある。本稿における分析の結果,江戸の土地市場は単なる商品市場ではなく,不動産抵当金融の証券市場を形成していたことが明らかとなり,江戸で局地的に長期金融資産の証券市場が成立していたことが示唆されている。.
7. 鷲崎 俊太郎, 明治後期における三菱合資会社の不動産事業, 三菱史料館論集, 17, 81-97, 2016.03, [URL],  19~20世紀転換期における三菱合資会社の不動産事業について概観を考察するとともに,1909年の地所課「収支証書」を分析してその収支状況の実態に迫ってみた論文。本稿のファクト・ファインディングスとしては,以下の2点が挙げられる。
 第1に,1900年代後半期における不動産事業の資産収益率が7~10%で推移していた点である。この資産収益率を求めるにあたって,収益額・資産額双方とも東京地区と新潟事務所の土地家屋が含まれていたが,当該期間における不動産事業の主力は東京地区にあったので,この数値は都市不動産の利.
8. 鷲崎 俊太郎, 近世・近代の土地市場分析, 季刊 住宅土地経済, 96, 28-35, 2015.04.
9. 鷲崎 俊太郎, 明治期東京の不動産賃貸経営における三菱の役割と意義 ―三井との比較において―, 三菱史料館論集, 16, 163-172, 2015.03, [URL], 本稿は,ここ数年研究してきた江戸・東京の不動産経営史の分析に対する一定の総括と展望を語るものであり,とくに明治期の不動産賃貸経営において三菱が果たしてきた役割と意義を,近世期から江戸・東京で行われてきた三井の不動産賃貸経営と比較して述べることを目的とする。たしかに,近世の「町屋敷経営」は幕末をもって終わりを告げ,明治維新後に新たな法律や土地制度が整備された結果,近代の「不動産賃貸経営」が成立した。この点は森田貴子によって詳細な分析が行われてきたが,維新期には近世以来の土地投資と不動産経営のメカニズムが全て否定されてしまったのだろうか。近世町屋敷経営後の三井における東京所有地集積の実情,あるいは三菱による近代オフィス(貸事務所)形態以前の貸長屋経営に対する分析を行うことで,不動産賃貸経営における近世から近代への移行がいかにして実施されたのか,確認していくことが重要である。その際,明治期の三菱における不動産経営の役割とは一体何だったのか,検討する余地があろう。本論文では,その意義を,丸の内と神田三崎町の官有地が1880年代後半期の第1次企業勃興期という時期に民間土地資本として払い下げられた点に求め,都市の近代化について考えたものである。.
10. 鷲崎 俊太郎, 島津 忠裕, 世界文化遺産登録に向けた鹿児島市の観光まちづくり ―鹿児島駅を起点とする交通ターミナルの課題と提言―, 歴史地理学, 57, 1, 72-87, 2015.01, [URL], 本稿の目的は,ユネスコ世界文化遺産登録を(執筆当時)控えていた「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」のうち,複数の構成資産が存在する鹿児島市において交通ターミナルの課題を指摘するとともに,それを解決する手段として,2次交通のターミナルとしてのJR鹿児島駅の役割に着目し,同駅を起点として展開していく「新しい観光まちづくり」を提言することにある。
 本稿では,筆者の一人である(株)島津興業副社長(現・社長)・島津忠裕(島津本家33代)が,2015年に世界文化遺産の登録をめざす「明治日本の産業革命遺産」の構成資産のひとつである「旧集成館」を管理し,観光事業による地域経済の発展をめざす立場から,世界遺産登録をめざした新しい観光まちづくりを提言した。それとともに,いま一人の筆者である鷲崎俊太郎が島津分析のアカデミック・サポートを行い,問題提起と総括を試みている。.
11. 鷲崎 俊太郎, 江戸・東京における不動産経営史の総括と展望, 経済学研究, 81, 4, 323-330, 2014.12, 本稿は,ここ数年研究してきた江戸・東京の不動産経営史の分析に対する一定の総括と展望を述べたものである。一連の研究の目的は,江戸・東京の土地市場と不動産経営について,不動産収益率という観点から長期時系列的に分析し,その意義を検討する点にあった。この収益率は,従来の利子率データ全体の中で,次のように位置づけられる。第1に,不動産投資は,投資対象という点で,従来の貸付や農村の証文が氏,大名貸とは異なる性格を有していた。第2に,利貸経営と不動産経営は,地主・商人にとって投資期間という点で異質の資産運用だったといえる。近世都市の地主・商人が資産運用として利貸経営と不動産経営のどちらを選択するかは,単に主要な経営だったか,副次的な経営だったのかという判断基準に留まるものではなく,短期と長期という視点から資産選択を行った結果ではないかと考えられる。第3に,明治前期の三井東京所有地における不動産収益率を,他の利子率と比較し近代の金融資産市場に位置づけてみると,金融資産の収益率全体は裁定取引によって均等化していた。換言すれば,東京市中における不動産収益の平均像は,1870~80年代の時点で過大評価を与えることはできないが,低利回りだったと過小評価する必要もなく,しかも他の金融商品と裁定関係にあったとみて相違ない。以上が,近世・近代の不動産収益率に対する総括である。.
12. 鷲崎 俊太郎, 三井における東京の不動産経営と収益率の数量的再検討:1872~1891, 経済学研究, 80, 2・3合併, 17-51, 2013.09,  本稿の目的は,明治前期における三井組東京所有地の不動産収益率を分析して,不動産経営の実態を再検討する点にある。
 従来の研究は利回りを求めるにあたって改正地価を土地資産の評価額として使用してきた。しかし,改正地価は地租の課税標準として地券に記載された法定地価で,土地資産を取得するために費やした期首の資産価値ではない。不動産投資における収益・利益の定義を,得たものから元本を控除した残りが当初の何%であるかと規定する以上,投資努力のパフォーマンスを表す不動産収益率は,一定の期間に資産の保有者へ支払われるキャッシュフローを期首の資産価値で割ったものである必要がある。
 以上の定義に基づき,三井東京所有地の不動産収益率を再計算してみた結果,不動産経営として活用された地面全体では,1875年に5%台を記録し,91年には9%台にまで到達した。このように収益率が上昇した背景には,収支フローと資産ストックの両面からもたらされた2つの事実が存在していた。収支フローに関しては,地代の増収と公租賦課の減額による利益の増加が挙げられ,資産ストックについては,沽券金高や実際の土地購入代金を期首の資産価値として使用したことで,改正地価で配慮されなかった建物の利潤を不動産収益率に反映できるようになった。
 とはいえ,三井の東京所有地は合計200か所弱にも及ぶ集合体だったために,その不動産収益率は,土地の購入年代によってその推移を異にした。徳川期からの所有地では幕末・維新期と連続的であり,明治期になって購入された土地の多くは,貸付先からの流地であったために,不動産収益率は2桁を超える高い推移を示していた。結局のところ,全体の収益率はこれらの平均像だったと解釈できる。
 最後に,不動産収益率を他の利子率と比較して同時期の金融資産市場に位置づけてみたところ,定期預金の金利や貸付金利の動きとパラレルな関係にあった。この結果,明治前期における金融資産は裁定取引によって均等化していく範囲内にあったといえる。.
13. 鷲崎俊太郎, 江戸の町屋敷経営と不動産収益率の長期分析:1775~1872―三井家両替店請40か所のケーススタディ―, 経済学研究, 79, 4, 95-125, 2012.12, [URL], 本稿の目的は,徳川後期における三井江戸所有地の不動産収益率を分析し,不動産経営の実態を解明することにある。三井家は,幕府から御為替御用を引き受けたが,それに伴う膨大な町屋敷を担保として供出しており,18世紀初頭には総資産の46%を不動産で占めるに至った。これまでの研究では,吉田伸之が江戸町屋敷経営の衰退原因として,度重なる大火と天保の地代店賃引下げ令の影響を指摘してきたが,本稿の分析によれば,町屋敷経営の大火に対するリスクは,三井家の大元方を通じて部分的にヘッジされており,地代店賃引下げ令についても,町屋敷経営に大きな影響を与えたといえるほどの効果は観察されなかった。他方,三井家町屋敷経営のインカム収益率は,18世紀後半~19世紀初頭に4%台を誇り,18世紀前半期のそれと連続的に推移していた。1820年代から低下傾向を示し,維新直前には2%前後まで半減したが,大元方が担保価値を維持すべく,町屋敷経営に対して資金を提供し,低減傾向にあった収益性を下支えしていた姿勢は,積極的な経営志向を持っていたという意味で評価に値するといえる。.
14. 鷲崎俊太郎, 歴史地理学-日本経済史問の学際的研究史 ―趨勢と課題―, 歴史地理学, 54, 1, 58-67, 2012.01, [URL], 本稿は,第54回歴史地理学会大会シンポジウム「近代の歴史地理:再考」(2011年6月26日開催,於山口大学)における報告のひとつであり,日本経済史の立場から,近代歴史地理学と社会経済史との学際的関係の意義を検討していくことを目的とする。とくに,1960年代後半~80年代前半における梅村又次と黒崎千晴との交友関係に焦点を当て,そこから我々後進の研究者に残されたメッセージを探ってみたいと思っている。具体的には,第1に,労働経済学を専門とし,『長期経済統計』の監修に携わってきた梅村が,なぜ,いかにして研究を日本経済史にシフトさせ,かつ歴史地理学を重要視してきたのかをまとめ,第2に,黒崎の足跡を少し振り返りながら,社会経済史学会で果たしてきた貢献を検討し,第3に,梅村・黒崎がともに携わってきた数量経済史研究会におおける歴史地理学と社会経済史との学際性について考察を行う。.
15. 鷲崎俊太郎, 資料 鷲崎文三『回顧録』:1876-1930 ―明治・大正期における鉄道技師の半生―, 経済学研究, 77, 4, 109~141頁, 2010.12, [URL].
16. 鷲崎俊太郎, 日本土地市場史・不動産経営史研究の趨勢と課題―徳川~明治期の都市を中心に―, 経済学研究, 77, 1, 121~141頁, 2010.06, [URL].
17. 鷲崎俊太郎, 徳川後期の宿場町における土地市場と不動産経営―取手宿本陣染野家のケーススタディ―, 歴史地理学, 第51巻第4号(通巻246号),23~46頁, 2009.09, [URL].
18. 鷲崎俊太郎, 三菱における東京の土地投資と不動産経営:1870~1905年, 三菱史料館論集, 2009.04, [URL].
19. 鷲崎俊太郎, 徳川前期の町屋敷経営と不動産投資―江戸小舟町・神戸家のケーススタディ―, 三田学会雑誌, 第101巻第2号,65~90頁, 2008.07, [URL].
20. 鷲崎俊太郎, 江戸の土地市場と不動産投資:収益還元法による地代・地価分析, 社会経済史学, 第73巻第2号,25~40頁, 2007.07, [URL].
21. 鷲崎俊太郎, 明治初期の横浜居留地市場と内外商間取引, 三田学会雑誌, 第99巻第4号,239~264頁, 2007.03, [URL].
22. 鷲崎俊太郎, 幕末期における商人移動の人口地理学的分析―横浜開港に伴う豆州下田欠乏品売込人の転入経緯と世帯構成の変遷―, 歴史地理学, 第44巻第2号(通巻208号),5~24頁, 2002.03, [URL].
23. 鷲崎俊太郎, 天保期八王子横山宿の人口移動, 三田学会雑誌, 第92巻第3号,137~170頁, 1999.10, [URL].
24. 鷲崎俊太郎, 近世末期絹織物業中心地の人口移動分析―武州多摩郡八王子横山宿におけるケーススタディ―, 社会経済史学, 第66巻第6号,25~45頁, 2001.03, [URL].
主要総説, 論評, 解説, 書評, 報告書等
1. 鷲崎俊太郎, 千思万考 築地から見える都市経済史⑥ 居留地時代の築地・明石町 , 『経済の進路』三菱経済研究所, 2022.09.
2. 鷲崎俊太郎, 千思万考 築地から見える都市経済史⑤ 武家も所有した「町屋敷」, 『経済の進路』三菱経済研究所, 2022.08.
3. 鷲崎俊太郎, 千思万考 築地から見える都市経済史④ 持込家質は「住宅ローン」の起源なのか?, 2022.07.
4. 鷲崎俊太郎, 千思万考 築地から見える都市経済史③ 江戸の土地抵当利子率は「高利」だったのか?, 『経済の進路』三菱経済研究所, 2022.06.
5. 鷲崎俊太郎, 千思万考 築地から見える都市経済史② 買っては売られる町屋敷, 『経済の進路』三菱経済研究所, 2022.05.
6. 鷲崎俊太郎, 千思万考 築地から見える都市経済史① 「築かれた土地」の築地, 『経済の進路』三菱経済研究所, 2022.04.
7. 鷲崎俊太郎, 安定成長期の福岡経済と「失われた10年」 ライオンズを失いホークスを迎えるまで九州と福岡に何があったのか。, ベースボールマガジンMOOK 俺たちのパシフィック・リーグ クラウンライター・ライオンズ, 2022.04.
8. 鷲崎俊太郎, 岩橋勝著『近世貨幣と経済発展』, 経営史学会, 2021.12.
9. 鷲崎俊太郎, 数字から読み解く「高度成長期」の福岡経済とライオンズ, 『俺たちのパシフィック・リーグ 太平洋クラブ・ライオンズ』(B.B.MOOK1535),ベースボール・マガジン社, 2021.08, [URL], プロ野球,特にパ・リーグの球団史は,母体企業や地域経済の盛衰とは切っても切り離せない関係にある。では,西鉄晩年から太平洋時代の福岡経済はいかなる状態であり,チームをどのように取り巻いていたのか。(本文より引用).
10. 鷲崎俊太郎, 岡田直・吉崎雅規・武田周一郎『地図で楽しむ横浜の近代』, 歴史地理学, 2021.03.
11. 鷲崎俊太郎, 岩崎葉子著『サルゴフリー店は誰のものか ―イランの商慣行と法の近代化―』, 歴史と経済第249号, 2020.10.
12. 鷲崎俊太郎, 小野浩著『住空間の経済史――戦前期東京の都市形成と借家・借間市場』, 『経営史学』第50巻第2号, 2015.09, 戦前期東京の借家・借間市場の展開過程を,住戸と住空間をめぐる各主体の重層的関係に着目することを通じて,都市形成に関する新たな歴史時の提示を試みた研究の書評。.
13. 鷲崎俊太郎, 浜野潔著『歴史人口学で読む江戸日本』, 社会経済史学, 2012.08.
14. Shuntaro WASHIZAKI, Land Market and Real Estate Management in Japanese Cities, 1660-1870: An Analysis of Rents and Values of Real Estate in Edo Using the Income Capitalization Approach, M. Miyamoto and M. Sawai (eds), Towards a Reinterpretation of Japanese Economic History: Quantitative and Comparative Approaches (Kyoto: International Institute for Advance Studies), pp.69-70, 2012.03, 本研究の目的は,江戸の土地市場と不動産経営に関する長期時系列データを作成し,その収益性の推移を明らかにするとともに,江戸の土地投資に対するファンダメンタルズ・モデルの説明力を検討することにある。従来,徳川都市の土地研究は,土地収益市場と土地資産市場を切り離して議論してきたが,本研究は双方の関係性を重視して江戸の実質地価を求め,その変動要因をマクロ経済に求めてきた点に,最大の特徴を有する。
 分析結果により,以下に掲げる3点の事実が発見された。第1に,犬山屋神戸(かんど)家という商家が徳川前期の江戸に所有した地面を事例として,町屋敷経営の収支構造を解明し,商人資本による不動産投資の意義を検討した。それによれば,①当該期の不動産経営は健全だったが,その実現にあたっては収益最大化に向けた管理人の経営手腕や,低率・低額・逓減の方向性を伴った町人の租税負担を前提としたこと,とはいえ②町人の役負担が減免されても,その減額分を上家・土蔵の減価償却費が吸収するため,町屋敷経営は高利の運用を期待しにくいという資産的特徴を備えていたこと,③それにも関わらず当時町屋敷への投資が集中したのは,貨幣改鋳によって三貨相場が不安定化し,現金から土地へという資産選択が一挙に加速化したためであったことなどが主張されている。この結果として,江戸の不動産は,利子所得を期待する資産ではなく,資本利得を期待する資産と位置づけることに成功した。
 第2に,収益還元モデルを利用して,江戸の土地価格がファンダメンタルズ・モデルによって決定していたのかを検証した。その結果,一方では,それが経済合理的に説明された価格であった点が明らかとなった。なぜなら,徳川時代において都市の土地は唯一の長期金融資産だったため,現代と比較すると非常に高い流動性を有しており,実質的に証券化していたからである。実際のところ,町奉行によって定められた町触によって,町屋敷の売り手と買い手,あるいは抵当権設定者と抵当権者は,対象となる土地価格や抵当に関する情報を町名主に報告する義務を負っていた。それとともに,町名主は,町内における不動産経営に関する租税率,収支や利潤,抵当権の有無といった土地市場に関する情報を「沽券帳」と呼ばれる土地台帳に記録・管理していた。そうすることによって,それらの情報はいつでも不動産を売買したり,抵当に入れたりしたい町人に対して開示することが可能だったのである。したがって,地価は将来地代の割引現在価値として設定されるようになり,土地の生産性と利子率によって説明されたものだといえる。しかし他方で,土地価格が町人投資家の非合理的な期待や行動によって決定したであろう点も,看過できない事実である。たとえば,18世紀初頭に江戸の市街が拡張されたが,まだ不動産経営が行われていない時点で設定された土地価格は経済合理的だったと判断できず,売り手と買い手との間に情報の非対称性が存在していたはずである。また,1818年には文政の貨幣改鋳が実施され,全般的に物価は上昇したものの,土地価格は意図的に据置きとなり,物価に対して硬直的だった点は,物価に対する土地資産の過小評価に繋がったと考えられる。さらに,土地が質流れした場合,弁済時の価格が概算的に決まっていた点も少なからず存在していた。
 第3に,徳川後期における江戸の商業地を事例に,実質地価の決定構造とその推移を分析した。その結果,18世紀中には実質地代の低下にもかかわらず,低金利政策と貨幣供給の増量,商品取引に対する貨幣需要の減退といった経済環境が土地不動産への資産選択を活発化させ,実質地価の上昇に貢献した。だが,19世紀初頭になると,貸手の商人・地主が,土地収益性を,表店でなく裏店のそれ程度と過小に評価したことで,実質地価は利子率の低下に反して暴落した。
 以上より,次の2点を結論づけることができる。ひとつは,徳川時代における都市の土地価格がファンダメンタルズ・モデルによって経済合理的に計算された価格を基盤としながら,町人投資家の非合理的行動によって説明された価格を加減して決定していた点であり,いまひとつは,徳川都市の土地不動産が投機的な長期金融資産として運用されていた点である。.
15. 鷲崎俊太郎, 徳川後期の「地方町場」と土地不動産市場:取手宿本陣染野家の地貸店貸経営, 首都圏形成史研究会会報第24号, 2010.08.
16. 鷲崎俊太郎, 江戸町屋敷経営の収支構造と資産利子率:1695~1754――日本橋小舟町1丁目・犬山屋神戸家, Hi-Statディスカッション・ペーパー・シリーズ, No.231, 2008.01, [URL].
17. 鷲崎俊太郎, 大西健夫・堤清二編『国立の小学校』, 歴史地理学, 第49巻第5号(通巻236号),72~76頁, 2007.12, [URL].
18. 鷲崎俊太郎, 銚子醬油醸造業賃金の再推計:1864~88年――ヤマサ醬油・蔵奉公人, Hi-Statディスカッション・ペーパー・シリーズ, No.225, 2007.11, [URL].
19. 鷲崎俊太郎, 明治・大正期の都市卸売物価データベース:1885~1920, 慶應義塾大学経商連携COEディスカッション・ペーパー, DP2003-023, 2004.03, [URL].
20. 鷲崎俊太郎・杉山伸也, 経済史シンポジウム:討論とコメント, 三田学会雑誌, 1999.04.
主要学会発表等
1. 鷲崎俊太郎, 明治期東京市内における弁護士事務所の立地状況, 第65回歴史地理学会大会, 2022.05.
2. 鷲崎俊太郎, なぜ明治期の東京市京橋区に弁護士事務所が多かったのか? ―歴史地理学の視点から―, 社会経済史学会九州部会, 2022.04.
3. 鷲崎俊太郎, 日清・日露戦後期における三菱東京所有地の意義 -麹町区内幸町の事例研究-, 政治経済学・経済史学会, 2021.10,  この研究の目的は,三菱合資会社が1895(明治28)年から1929(昭和4)年頃まで所有した東京市麹町区内幸町1丁目3番地(現・東京都千代田区内幸町1丁目2~3番地)の地所を事例として,日清・日露戦後期――から,その後史料収集が進んだために1920年代まで――における東京の土地利用の社会経済史的意義を探ることにある。
 1890~1920年代の東京では,市区改正事業,鉄道建設,製造業・サービス業の本社集積など,都市化への軌跡が着実に刻まれた。その中で,三菱の果たした役割は,丸の内オフィス街の構築を筆頭に大きいが,実際にはそこに端を発するわけでなく,また丸の内の地所経営も当初は決して順調でなかった。他方,近代東京の土地不動産史は,拙稿を含めて,収益率から資産価値を評価したり,都市計画を実施する行政の特性,建築技術の発達などから関心を高めてきたりした反面,東京の都市化が明治日本における社会経済の制度的背景を十分に踏まえて位置づけられてきたとは言いがたい(野村正晴[2017]「財閥組織と都市経営」,中川理編『近代日本の空間編成史』思文閣出版,所収,鈴木智行[2020]「「一丁倫敦」の経営史」,『三菱史料館論集』第21号,鷲崎俊太郎[2008]「三菱における東京の土地投資と不動産経営:1870~1905年」,『三菱史料館論集』第10号など)。他方,三菱の都市不動産経営史から見て,内幸町の地所は,購入・売却の史料が三菱史料館内でこれまで発見されておらず,丸の内・越前堀・愛宕町・三崎町など,東京市内の各所有地に比べると,存在を知りながらも,長らく謎の土地だった(三菱地所社史編纂室[1993]『丸の内百年のあゆみ』上巻,三菱地所)。
 そこで本研究では,三菱が内幸町の地面を通じて,1890~1920年代に果たした東京市内中心部における土地利用の意義・役割を検討する。具体的に,同地で営業を実施していた代表例は,弁護士事務所と病院だった。条約改正で居留地制度が廃止され,外資が内地に進出する中で,東京では軍事物資・機械工作・鉄道用資材などの需要が高かったために,官公庁や製造業・鉄道業と輸入代理店の外資との交渉空間が必要であり,時にそれは法廷に場を移した。内幸町は,丸の内から近いうえに借地料が安く,大審院・控訴院・司法省のある霞ヶ関にも隣接している。他方,衛生面においては,19世紀中に欧米へ留学し,医学を修めて帰国した医師たちが,当時としては最新の療法や施設を完備した個人による大病院の開業を切望していた。こういうサービス事業を行えるために,都心にできるだけ近く,かつ比較的広くまとまって利用できる敷地こそ,内幸町1丁目だった。
 本報告では,こうした内幸町の空間経済史的役割を,三菱史料館に寄託された地所関係史料(主として「収支証書」)に限らず,東京都公文書館所蔵の官公庁史料,東京法務局の土地台帳や登記簿,当時の新聞記事,地籍図や民間地図などから,情報を包括的に収集し,土地の購入プロセス,借地人の土地利用に関するバックグラウンドなどをも記述史料から分析し,三菱が内幸町1丁目の地所を当該期間に所有・賃貸した意義を考えてみたい。
 現段階における考察は,以下のとおりである。①明治前期の内幸町1丁目には,東京府庁が,旧大和郡山藩上屋敷を利用して立地していた。しかし,1894年の有楽町新府庁舎完成に伴って,同地4,606坪が売却に出され,翌年三菱合資会社が社員の岡本春道名義にて46,060円でこれを購入した。この坪単価(10円)は,90年の丸の内・三崎町地所払下げ時(12円)より低い。また95年には,官庁集中計画によって司法省庁舎(現・法務省赤れんが棟)が竣工,翌年には大審院庁舎が完成し,法曹界の霞が関集中も進捗していた。
 ②三菱は内幸町の地所を35筆に分割し,1895~97年に借地人と契約を結び,地貸経営を開始した。1筆平均135坪と,極めて広い貸地である。弁護士・増島六一郎は,荘田平五郎から丸の内第1号館の貸事務所を斡旋されていたが,これを断り,内幸町の5筆(697坪)を賃借している。また同じく弁護士の山田喜之助も1筆(145坪)を賃借している。97~98年には,菊池武夫,高木豊三といった有名弁護士が,内幸町1丁目3番地で法律事務所を開設したことから,増島や山田の借地に彼らが事務所を開設したとみられる。以後,増島は1926年竣工の丸の内仲28号館へ移転するまで,内幸町に事務所を設置した。
 ③医師としては,長与専斎の長男・稱吉が11筆(1,169坪)を借地し,胃腸病院を開業した。このうち927坪分は,稱吉義弟の平山金藏が胃腸病院を継いで1915年7月から借地人となり,1925年11月には三菱から同地を購入し,1968年に四谷へ移転するまで,平山家が内幸町で開業していた。長與家の残り200坪余は,稱吉弟の又郎が借地していたが,1925年11月,三菱が増島の借地1筆などとともに大阪ビルヂング(現・ダイビル)へ売却し,日比谷ダイビル建設の礎となった。ほかにも,ミュンヘン大学で学位を取得し,既に芝区金杉浜町で開業していた深瀬周吉が,手術室・病室などの設備を必要としたため,同郷(山形県北村山郡東根町)の地主・横尾弥門を借地名義人として,その土地を借り受け,内幸町で病院経営を行った。これが,2011年まで続く日比谷医院となる。
 ④地代の推移に関して,増島借地の1筆(144坪)を例にとると,1900~15年の15年で2倍の増加に留まったが,1915~25年の10年間で2.5倍の騰貴が見られた。増島は常に継続の賃貸借だったが,新規契約となれば,地代は値上げされやすい。とくに1920年代の地代上昇は,全般的に割高だった物価水準と比べても,相対的に高いものだった。そこまでして地代を引上げざるをえなかった背景には,従来の地貸経営に限界が生じ,都市化に見合う高度な土地利用が十分に達成できていなかった点があげられる。
 既に丸ビルは1923年2月竣工し,同年の9月関東大震災は今後の土地利用を再考させる契機となったと考えられる。上述のとおり,1925年から借地人への土地販売が開始されるが,貸地の一部は集積されて大阪ビルヂングに売却された。このように,新たなオフィスビルを建設して高度な土地利用を創出できたのは,内幸町の地所をこれまで分譲化させず,また極端に分筆化せずに維持できた功績が大きかったといえる。.
4. 鷲崎俊太郎, 村落社会の市場経済化と共同性の諸相 ―近世における上塩尻村(長野県上田市)の事例分析から― コメント:近世都市経済史との比較の立場から
, 社会経済史学会, 2021.05.
5. Shuntaro WASHIZAKI, An Analysis of the Interest Rate for Loans to Direct Retainers of the Shogun in Early Modern Japan, 44th Annual Meeting of the Social Science History Association, 2019.11, The purpose of this report is to analyze the transition of the interest rate for loans to direct retainers of the Shogun in early modern Japan, taking the case of Edo from the first half of the 19th century to the Meiji Restoration in 1868.
I compared the time series transition of the interest rate of real estate mortgages in Edo with that for loans to Domain Lords in Osaka in previous studies. As a result, both interest rates showed a significant positive correlation with prices. However, the former increased, while the latter continued to decrease during the hyperinflation from the opening of the port in 1859 to the Meiji Restoration. From these fact findings, I concluded that financial markets were not yet unified nationally and were not arbitrated between East and West in modern Japan. On the other hand, there is also a problem that the two interest rates cannot be compared directly because the borrower's class and the financial market location were different. In order to solve this problem, I will analyze the transition of the interest rate for loans to direct retainers of the Shogun in Edo in this report. Therefore, I will clarify the difference of samurai finance in the money market between Edo and Osaka.
A financial institution that provided loans to him during the Tokugawa period was called the Fudasashi. He was supposed to be paid by the generals with rice produced at his place of control. However, even if he received all of his salary in rice, he did not consume it entirely as food. He would rather need cash to purchase the necessary goods for life. Furthermore, since rice was transported to Edo after autumn, he had to have cash from the Fudasashi when he needed funding in spring and summer. Most of Fudasashi set up stores in Asakusa where rice warehouses were accumulated in Edo City at that time. Then, Fudasashi received rice from the warehouse as a representative of the direct retainer, and paid a part of it to him. In addition, Fudasashi played the role of a financial institution that converted remaining rice into cash and passed it to the direct retainer, or lent cash to him using rice as a reserve.
There were about 100 Fudasashi in Edo from the first half of the 18th century to the end of the Tokugawa Shogunate in 1867. However, the Meiji new government stopped paying salaries for a samurai class and dismantled its status. Due to the effect, all Fudasashi closed without collecting the huge amount of debt they had been lending to direct retainers. Therefore, almost no historical material related to the management of Fudasashi remains today.
There are analysis by Kouda and Kitahara as prior researches on Fudasashi. Those studies include the background of the appearance of Fudasashi, the fund transfer system between Fudasashi and warriors, and the market intervention of the Shogunate for financial transactions of Fudasashi based on the historical materials of the Shogunate's legal system. However, there is no research that analyzed financial transactions quantitatively based on the books or borrowing documents of Fudasashi at that time. At present, these Fudasashi documents are only left in the Aochi family materials at Hitotsubashi University Library and in the Sumitomo Family documents. In this report, I will use the latter document recently published as historical material.
The Sumitomo family is one that has developed copper mining and refining industries as the core of family business since the early modern Japan. The Sumitomo family opened its first store in Edo in 1678, and advanced to Asakusa in 1702. They started to transfer funds to direct retainers as Fudasashi at the latest in 1755, and also made loans to domain lords and Edo townspeople. However, due to the influence of the Meiji Restoration, they decided to close two stores in Edo in 1868.
There are 267 borrowing certificates in the Sumitomo family documents. In other words, the Sumitomo family established business relationships as a Fudasashi with at least 267 direct retainers of the Shogun in Edo. Of these, the certificates that described the interest rate clearly are 73, which were prepared in 1825-66. All 73 borrowing certificates contain information such as the amount of rice received as salary, principal for borrowing, repayment and interest per year, etc.
Based on this information, analyzing the nominal interest rate reveals two features. As the first feature, the direct retainers who received the funds transfer from the Sumitomo family were classified into the following two groups based on the loan interest rate. The first group was the ones who were in debt at an annual interest rate of 10-12%. Since the amount of rice as their salary and the principal for borrowing were relatively large, it is presumed that the annual interest rate on lending was high. The second group was the others who were in debt at an interest rate of 1-3% a year. Because the amount of rice as their salary was relatively small compared to that of the first group, they were judged to be minor retainers. In this way, the interest rates were divided into two groups, probably because there was a risk of being loaned off when the interest rate of the same rate as the market interest rate in Edo was imposed on a tiny retainers’ group. The land mortgage interest rate in Edo was 6-8% a year at that time. It is speculated that the Sumitomo family was forced to lend funds to the small retainers class with low interest, but that they were lending with a slightly higher interest rate to the relatively high paid retainers class. .
The second feature is that the interest rate on loans by Sumitomo family did not change for 40 years. Meanwhile, the Shogunate issued a decree to reduce the annual interest rate of general public loans from 15% to 12% in 1842. However, the Sumitomo family did not reduce the interest rate on loans. In other words, the government's policy of intervention in the financial markets did not affect the Fudasashi loan for direct retainers. Since this fact has already been confirmed from the land mortgage interest rate in Edo, it can be said that this law did not lower the interest rate regardless of the lender's class.
On the other hand, despite the rise in prices triggered by the opening of the port in 1859, the nominal interest rate on the Sumitomo family remained unchanged. This trend was contrary to that of the land mortgage interest rate in Edo, but it was in common with that of the daimyo loan interest rate in Osaka. The reason is probably due to the pressure to maintain the nominal interest rate for funding for direct retainers. With the opening of the ports, trading in import and export goods and the development of new businesses benefiting from the trade could be expected to increase profits for the townspeople. However, a drop in disposable income due to price increases was expected for retainers. Therefore, Fudasashi were not able to raise the loan interest for retainers. However, it is not known at present whether it was decided by the market intervention of the Shogunate or by the demand-supply relationship of the financial market. We would like to consider further proving this question in terms of historical sources.
It is thought that the profit of Fudasashi fell considerably at the end of the Tokugawa Shogunate. The reason is that the real loan interest rate was lowered by the sustained inflation rather than the legal pressure of the Shogunate that ordered the interest rate reduction. Furthermore, in the early modern Japanese financial markets, no arbitrage relationships were seen between regions or between lenders. The fact seems to be a great motivation to establish banking business nationwide after the Meiji Restoration. This is because the development of correspondent contracts was essential in order to carry out lending and remittance operations at the national level..
6. Shuntaro WASHIZAKI, An Analysis of Estimated Interest Rates in Early Modern Japan: Loans to Domain Lords in Osaka and Land Mortgage Finance in Edo, 43rd Annual Meeting of the Social Science History Association, 2018.11.
7. Shuntaro WASHIZAKI, A Reanalysis of Estimated Interest Rate in Early Modern Japan: Loans for Domain Lords in Osaka, The 6th Asian Historical Economics Conference, 2018.09.
8. 鷲崎 俊太郎, 江戸と大阪の推計利子率分析 ―土地抵当金融と大名貸金融―, 社会経済史学会東北部会・第17回経営史学会東北ワークショップ(共催), 2017.11.
9. 鷲崎 俊太郎, 江戸の土地不動産における収益率と利回りの時系列分析 ―賃貸・売買・抵当市場において―, 第60回歴史地理学会大会, 2017.06.
10. 鷲崎 俊太郎, 近世・近代都市の土地市場分析 ―江戸・東京の不動産経営史―, 国土交通政策研究所第176回政策課題勉強会, 2015.06.
11. 鷲崎 俊太郎, 近世・近代都市の土地市場分析 ―江戸・東京の不動産経営史―, 第188回住宅経済研究会, 2014.10.
12. 鷲崎 俊太郎, 近世・近代都市の土地市場分析 ―江戸・東京の不動産経営史―, 第4回都市土地研究会, 2014.07.
13. 鷲崎 俊太郎, 20世紀初頭における三菱合資会社の不動産経営と地所課の役割 ―「収支証書」を事例に―, 社会経済史学会第83回全国大会, 2014.05,  本報告は,20世紀初頭における三菱合資会社地所課(1893年12月合資会社設立時に会計課が地所・家屋を分掌,99年庶務部が分掌,1906年地所用度課の設置を経て08年地所課と改称)の史料を利用して不動産収支を分析するとともに,地所課が合資会社全体において果たした役割について検討していくことを目的とする。
 昨今の近世・近代日本における都市の土地市場と不動産経営の研究によって,以下の2点が明らかとなった。江戸・東京の不動産投資は2~8%という低年利で推移した長期金融資産であり,短期金融資産かつ消費金融の要素を含む大名貸や農村証文貸と性格を異にしていたが,両者の変化のトレンドは18~19世紀転換期から幕末期に低下傾向を示した点で共通していた。その後,不動産収益率は1860年代後半期から上昇し,70年代後半~90年代前半には7~9%台まで回復した。この推移を明治前期における他の金融商品と比較すると,不動産収益率は80年代中頃~90年代初頭には日本銀行本店の公定歩合や東京市中の貸付金利とパラレルに変動していたことから,明治前期の金融商品は裁定関係にあったといえる(鷲崎[2012, 2013])。しかし,明治前期における都市の不動産経営は,外観・収支構造とも近世の町屋敷経営を継続したままだった。こうした「在来型不動産経営」に変化し始めたのは,1880~90年代である。鷲崎[2009]はそれを投資パフォーマンスという立場から分析した結果,ある程度まとまった土地に欧米の建築技術や住宅供給システム(電灯・電話・火災保険など)を取り入れて容積率を向上させ,市街地の高度利用を図る「近代型不動産経営」の必要性が明らかとなった。その手法・手段こそが丸の内オフィス街の建築であり,その不動産収益率は20世紀初頭に10%へ到達しようとしていたのである。
 以上の研究背景をもとに,本報告では,20世紀初頭における三菱合資会社の不動産経営を収支報告レベルから分析してその特徴を捉え,本社における地所課の役割を明らかにしたい。本分析の史料としては,三菱史料館所蔵の①「収支証書」をベースとしながら,②「諸勘定明細書写」1905年12月~1909年8月,③「三菱合資会社本社資産負債損益諸表」1895~1911年,④「本社決算勘定書」1895~1911年を補完的に利用する。③と④は,合資会社時代の社誌を編纂するために作成された附表であるが,地所家屋資産・収支のアゲリゲート・データしか掲載されていない。他方で②は,③~④に掲載された各収支の明細表を記すが,掲載期間の短さゆえに前後の推移を把握できない。これに対して①は,地所課が地代家賃の受領証や諸税・諸費用の領収証を収集した入金・出納記録に相当する。その総冊数は20年分355冊に及ぶため,まずは初年の1909年を本報告の事例として採用する。これらの証書を1枚ずつ原票レベルで集計した損益の把握は,「損益計算書」の復元に留まらず,当時の不動産経営を微視的に捉える点でも有効である。実際,鷲崎[2009]が1880~90年代の「勘定証書」から同じ作業を試みた結果,収支状況は不足なく伝えられていたので,上記の①も信憑性の高いデータを備えていると確信できる。
 現時点での分析結果は,以下のとおりである。収入面においては,丸の内の収益が大半を占めていたが,旧来の所有地である愛宕町・越前堀の収益も少なくはなかった。1909年の丸の内では第1~11号館が竣工し,第12~13号館が最後の煉瓦造建築として着工されていた。「一丁倫敦」として全ての建築物が丸の内に完成するまでは,「在来型不動産経営」の役割も小さくはなかったといえる。他方で支出面においては,地所家屋経営としての費用以外にも,小岩井農場の生産物購入や岩崎家勘定の立替,桐島像一地所課長の公務物品費などにも使用されていた。地所課は1911年に地所部として独立採算制を採用し,内部資本制度を設定するが,その2年前から,さまざまな権限が本社から移譲された反面,まだ地所家屋支配が会計課に属していた合資会社設立当初の事務取扱内容を色濃く反映していた。地所課として存在した3年間の収支は,まさに過渡期に位置していたといえる。

【参考文献】
・鷲崎俊太郎「三菱における東京の土地投資と不動産経営:1870~1905年」,『三菱史料館論集』第10号(2009年3月)
・――「江戸の町屋敷経営と不動産収益率の長期分析:1775~1872 ―三井家両替店請40か所のケーススタディ―」,『経済学研究』第79巻第4号(2012年12月)
・――「三井における東京の不動産経営と収益率の数量的再検討:1872~1891」,『経済学研究』第80巻第2・3合併号(2013年9月).
14. 鷲崎 俊太郎, 近世・近代都市の土地市場分析 —江戸・東京の不動産経営史―, 社会経済史学会近畿部会4月例会, 2014.04.
15. 鷲崎俊太郎, 歴史地理学-日本経済史間の学際的研究史:趨勢と課題, 第54回歴史地理学会大会, 2011.06.
16. Shuntaro WASHIZAKI and his Seminar Class Students (Ryoji Kido, Kazuhei Saito, Mari Nakamura, Yuki Hiraoka, Ko Yo Han), Information Asymmetry and the Role of Dutch Interpreters in Nagasaki, Workshop: Institutions and Merchant Communities in Asia from the 18th to the 20th Centuries -Analyses of Global Trade Expansion from Local Perspectives-, 2011.03.
17. 鷲崎俊太郎, 江戸土地市場のファンダメンタルズとバブル, 数量経済史研究会, 2010.03.
18. 鷲崎俊太郎, 近世都市の土地市場と不動産投資分析―江戸のファンダメンタルズとバブル―, 社会経済史学会九州部会・経営史学会西日本部会学会(共催), 2010.01.
19. 鷲崎俊太郎, 江戸土地市場の家質利子率と売買地価―築地町屋敷の事例―, 社会経済史学会第77回全国大会, 2008.09.
20. 鷲崎俊太郎, 徳川後期の「地方町場」と土地不動産市場―取手宿本陣染野家の地貸・店貸経営―,シンポジウム「地方都市の形成と展開――その多様性」第1報告, 首都圏形成史研究会第66回例会, 2007.04.
21. 鷲崎俊太郎, 江戸の土地市場:表店と裏店の比較史, 歴史地理学会第208回例会, 2006.07.
22. 鷲崎俊太郎, 明治初期の居留地貿易と内外商間の経済的結合性:『横浜毎日新聞』からみた売込商・引取商の流通ネットワーク, 社会経済史学会第72回全国大会, 2003.06.
23. Shuntaro WASHIZAKI, Migration and Gendered Networks -A Case Study of the Shimoda Merchants in Yokohama 1854-1867, Paper Sessions in SSHA Meeting, 2001.11.
24. 鷲崎俊太郎, 幕末期豆州下田商人の欠乏品売込活動と横浜移住, 社会経済史学会第70回全国大会, 2001.05.
25. 鷲崎俊太郎, 天保期・開港前後の八王子横山宿における人口移動と地域間ネットワークの形成, 社会経済史学会第68回全国大会, 1999.05.
学会活動
所属学会名
野球文化学会
鉄道史学会
社会経済史学会
経営史学会
政治経済学・経済史学会
歴史地理学会
地方史研究協議会
学協会役員等への就任
2023.06~2026.05, 歴史地理学会, 運営委員.
2019.06~2025.05, 社会経済史学会, 評議員.
学会大会・会議・シンポジウム等における役割
2023.05.27~2023.05.28, 社会経済史学会第92回全国大会, 実行委員.
2014.04.26~2014.04.26, 社会経済史学会九州部会2014年4月例会, 司会(Moderator).
2013.09.28~2013.09.28, 経営史学会西日本部会2013年9月例会, 司会(Moderator).
2012.10.13~2012.10.13, 社会経済史学会九州部会2012年10月例会, 司会(Moderator).
2012.04.14~2012.04.14, 社会経済史学会九州部会2012年4月例会, 司会(Moderator).
2012.01.28~2012.01.28, 社会経済史学会九州部会・経営史学会西日本部会2012年1月例会, 司会(Moderator).
2011.11.26~2011.11.26, 経営史学会西日本部会2011年11月部会, 司会(Moderator).
2011.01.22~2011.01.22, 社会経済史学会九州部会・経営史学会西日本部会2011年1月例会, 司会(Moderator).
2010.10.01~2011.10.31, 経営史学会第47回全国大会, 準備委員.
2006.11.25~2006.11.26, 経営史学会第42回全国大会, スタッフ.
2005.04.30~2009.05.01, 社会経済史学会第74回全国大会, スタッフ.
学会誌・雑誌・著書の編集への参加状況
2008.05~2017.03, 歴史地理学会, 国内, 編集委員.
学術論文等の審査
年度 外国語雑誌査読論文数 日本語雑誌査読論文数 国際会議録査読論文数 国内会議録査読論文数 合計
2015年度      
2014年度      
2013年度      
2012年度      
2009年度      
2010年度      
2012年度      
研究資金
科学研究費補助金の採択状況(文部科学省、日本学術振興会)
2022年度~2024年度, 基盤研究(C), 代表, 近代都市東京における土地賃貸借市場の構造分析 ―麹町区内幸町のケーススタディ―.
2019年度~2021年度, 基盤研究(C), 代表, 近世金融市場における利子率の決定因分析:江戸・大阪における武家貸と家質貸.
2016年度~2018年度, 基盤研究(C), 代表, 江戸・東京における土地不動産市場と利子率の長期時系列分析:抵当利子率と資本収益率.
2013年度~2015年度, 基盤研究(C), 代表, 江戸・東京における土地市場と不動産収益率の長期的分析:三井・三菱のケーススタディ.
2010年度~2012年度, 若手研究(B), 代表, 「近代都市の土地投資と不動産経営:三井・三菱における東京所有地の事例研究」.
2004年度~2006年度, 特別研究員奨励費, 代表, 「明治期の国土利用と在来的経済発展」.
寄附金の受入状況
2016年度, 公益財団法人大林財団, 平成27年度研究助成「江戸・東京の土地不動産市場分析:抵当利子率と資本収益率の長期時系列データ作成」.
学内資金・基金等への採択状況
2009年度~2009年度, 重点個別研究, 代表, 「江戸・東京の不動産投資と土地収益性―幕末・維新期を中心に―」.

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